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怠い。沈んでいた意識がはっきりと浮上し最初に感じたのは、指を動かすのさえ怠い程の身体の重さだった。気を抜けば閉じそうになる瞼をなんとか持ち上げながら、海馬は横になったままで辺りを見渡した。
天井には見慣れない窓があり、開けば吹き抜けになりそうだ。傍に置かれた机はいたって一般的な型の物で、ますますこの場所が何処なのか海馬には分からなくなる。
普段眠る寝台よりも硬いマットレスの感触を背に感じながら、ここはどこだと海馬が思案していれば、どこからかがちゃりと扉の開く音と、あっと言う何かに気がついた様な声が同時に聞こえてきた。
「気がついたんだね…良かった」
安堵した声でそう呟き、横になった海馬の傍にまで歩いてきたのは海馬のよく知る方ではなく、大人しい方の遊戯だった。
紫色の丸い瞳を不安げに揺らして海馬を見詰める遊戯に、何故ここに奴がいるのかと瀬人は霧がかかったようにぼやける頭でなんとか思い返す。
目覚めるよりも前の記憶は、校門の前で迎えの車を待っていたところで途切れている。茹でる様な暑さの中、補習をさっさとこなし木陰で車を待っていた筈なのだが、いつの間にか意識は途切れ今はこうして宿敵に看病されているらしい。そこまでを考え、自分が体調を崩して倒れたのかと海馬は気付いた。
そう言えば、昨日まで三日続けて徹夜をしていたし、教室には安っぽい扇風機が回っていただけでかなりの暑さだった。
記憶が無い理由は分かったが、どうして己は遊戯に看病されているのだろうか。海馬が不思議そうに傍の椅子に座った遊戯を見れば、ああ、と察した様に遊戯が喋りだした。
「僕も違う教室で補習受けててさ、帰ろうとして校門まで行ったら突然君が倒れて来て…。本田くんも一緒に居たから、一番家が近かった僕ん家に君を運んだんだ」
「ホントは電話帳に載ってる番号に掛けようと思ったんだけど、もう一人の僕が誘拐に思われたら大変だろうって」
そう言い、徐ろに首から下げた三角錐の飾りに触れる遊戯に、またその話かと海馬は小さく溜息をつく。確かに正しい判断ではあるが、未だに遊戯がイマジナリーフレンドや多重人格らしきものを信じているのは海馬ですら時折同情の目で見てしまう。実際何度もその様を目の前で見ている海馬だが、パズルを軸として遊戯の人格が入れ替わっているというオカルト話を受け入れられずにおり、ただの妄想癖だろうと今でも考えている。
そんな憐れみの感情すら向けられているとは露知らず、遊戯は一度海馬ににこりと微笑んで、何か食べる?と優しい声で尋ねてきた。
「ママに聞いたら軽い熱中症と風邪だろうって。きっと薬飲んだらすぐに良くなるしさ、何か食べない?」
と言うか、もう作ってあるんだけどさ…。
苦笑気味にそう言った遊戯がチラリと視線を泳がせた方を海馬も見れば、机の上にラップに包まれた白い皿が置かれていた。
「あの…僕のママが作ったお粥なんだけど…食べれるかな」
先程よりも不安そうな顔をして自分を見詰める遊戯に、海馬はそんなに自分は好き嫌いの多そうな人間に見えるのかと疑問に思ったが、ヒリヒリと痛む喉でそれを聞く気にもなれずただ一度だけ首を縦に振った。
海馬に食欲があるのが分かったからなのか母の料理を拒絶されなかったからなのか、遊戯はパッと顔を明るくする。
「良かった!あ、海馬くんはタマゴアレルギーとかないよね?」
白い皿を手に取りペリペリとラップを剥がしながらそう聞く遊戯に、海馬はまた一度こくりと首を縦に振る。
しばらくマトモな食事も怠っていたなと自分の食生活も省みながら、粥を食べようと海馬は重い体を起こした。そのまま遊戯から匙を受け取ろうとする、が。
「海馬くんは座ってて!君、気付いてないかもしれないけど、今すごい手がフラフラしてて危なっかしいしさ」
遊戯に指摘されキョトンと驚いた顔をする海馬に、遊戯はやっぱり気付いてなかった、と小さく笑った。笑われたことにムッとして、馬鹿にしているのかと海馬が目で訴えたが、熱でぼんやりしている青い目には普段の半分も迫力が無く、遊戯からは無理しちゃダメだよ、と諭されるだけに終わった。
そんなやり取りをしながらも遊戯は銀色のスプーンで皿の中身を掬い、白い湯気の上る粥にふうふうと息を吹きかけていた。
「ふうーふうー…もう冷めたかな。はい、海馬くん」
ぼうっとした顔をする海馬の前に匙を向けて、遊戯はニコニコと笑う。
「あーん!」
「………」
遊戯は満面の笑みで海馬に粥を食べさせようとするが、自分の宿敵と決めた相手から子供、しいては雛鳥の様な扱いを受けているのが気に食わないのか、海馬は少しむくれた顔で口を噤んだ。
「あれ、どうしたの海馬くん」
「……そ、こまで、しなくていい…っ」
不思議そうに自分を見る遊戯に何か言おうと、ひりつく喉を震わせて声を出した海馬だったが想像していた以上に自分の声が枯れ、消え入りそうな程の声量でしか喋れないのに驚き、ハッとして口を薄く開いたまま困惑した表情を浮かべた。
目が覚めた時から異様に喉が痛く喋り辛いと感じていたが、ここまで酷いとは。明日はともかく、今日は夕方に会議もあるのだ。声が出せないというのは困る。
どうしたものかと思考を繰り返す海馬だったが、ぽかんと開いていた半開きの口に突然勢い良く匙が突っ込まれ、結論に到ることは無かった。
うぐっと唸る海馬にゴメンと断りを入れながら、遊戯は匙を口の中で斜めにし卵粥を流し込む。海馬は詰まらせないようにと慌ててそれを舌で受け止め、匙が口内から出ていってからゆっくりと咀嚼した。
程よく温かい粥を、普段よりも倍近く遅いスピードで粥を咀嚼していく。むず痒くなった鼻をズッとすすれば、いまいちよく分からなかったダシの味も脳に伝わる。海馬は内心悪くないと思いながら最後の一粒まで飲み込み、未だニコニコと笑っている遊戯に視線を向けた。
「どう?全部食べれるかな」
笑顔で尋ねてくる遊戯を見て、会議はモクバに任せるしかないかと渋々諦め、海馬は無言で口を開いた。大人しく口を開いた海馬に遊戯はまた嬉しそうに顔を綻ばせる。そんな遊戯の表情を眺めた海馬はほんの少しだけ、昔風邪を引いた時の弟の気持ちを味わった気がした。
──にいさま、にいさまがたべさせて。
孤児院にあずけられるよりも前、モクバが風邪を引いた時そう鼻声で強請られ、仕方ないと瀬人は小さな水色の茶碗に入れられたお粥を食べさたことがある。その時の弟は風邪を引いていて辛いだろうと言うのに、食べ終わるその時までニコニコと笑っていた。
あの頃は理由がよくわからなかったが、今この時初めて幼い頃の弟の気持ちを海馬は少し理解した。存外これは、安心感が得られるものだと。
そんな感慨に浸りつつ、大人しくもぐもぐと粥を食べ続ける海馬に遊戯は心の中で、海馬くんにもかわいいところがあるんだなあ、とある意味感動していた。
海馬が最後の一口まで食べ終わり、空になった皿にカランと匙が入れられる。どことなく満足気な顔をしている瀬人に遊戯は隠れてクスリと笑い、座っていた椅子から立ち上がった。
「ちゃんと全部食べれたね!ママもきっと喜ぶよ。後はそこのお薬飲んで、元気になったらお家の人に連絡しといてね」
言い聞かせる様に遊戯はそう話し、皿を持って扉の前にまで移動しようとする。
満腹になった海馬がベッドサイドから水と薬を手に取り飲み込もうとする直前、ああそうだと何かを思い出したように遊戯は振り返り、すっと海馬の眼前に近付き手を伸ばしてきた。
急に目の前に伸ばされた腕に海馬が驚く暇もなく、遊戯は伸ばした方の右手でゆっくりと海馬の額を撫でた。
急に長い前髪の下を撫でられるとは思っておらず、半目気味だった青い目を丸くして海馬は頭上の遊戯を見詰めた。
「あ…ごめん。シートが剥がれかけてたから」
驚く海馬に見詰められオドオドと謝る遊戯は、慌てて剥がれかけていた熱冷ましのシートを額から剥がした。
「新しいの、取ってくるね!」
早口で言い切り、バタバタと足音を鳴らして部屋を出て行った遊戯の背中を見送り、しばし間があってから海馬は手に持っていた錠剤をぬるくなった水で胃の中へと流し込んだ。
喉奥へと薬が流れていったのを感じ、海馬はもう一眠りしようと体を後ろへ倒す。海馬がすんと鼻をすすれば柔らかい陽の匂いがうっすらと香ってきた。眠気と安堵を与えるその匂いに身体を委ねながら、遊戯には後日新しいカードでもくれてやろうと思い、海馬はゆっくりと瞼を閉じた。

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