top of page

僕が目を覚ました頃には、彼の姿はもうどこにもなかった。

 「あ……」

 眠たい頭を何とか働かせながら、僕はぐるりと周りを見渡す。
 僕以外誰もいない教室には、オレンジ色の夕焼けが差し込んでいる。僕がうたた寝をし始めた時も、外はこの色だったはずだ。つまり、眠ってしまってからそう時間は経っていないと言うこと。
なら彼はきっと、まだ近くにいる。
 僕は慌てて教室を飛び出し、彼を探し始めた。

ーーーーーーー

脇に抱えた鞄の重さが、今はひどくもどかしかった。
なぜ、アイツはあんなことを。分からない、分かりたくない。端的な考えがぐるぐると頭の中を回る。肺に取り込めず切れる息が煩わしい。
 混乱しながら俺は、夕暮れに染まった階段を駆け上がっていた。
 何かあるわけではないだろうに、ただひたすらにそこを目指した。
アイツがあんなことを言うとは、思わなかった。俺にあんな顔を向けるだなんて、あんな声で話しかけるだなんて、知りたくなかった。
 駄目になった頭であっても聞こえてきたトランペットの外れた高音で、俺の心臓は更に早鐘を鳴らした。

ーーーーーーー

駆け出した僕が向かったのは、この学校の屋上だった。
きっと、彼もそこに行くんだろうと、確信していた。
 僕は彼に、酷いことをしてしまった。彼が悲しいと思うだろうことを言ってしまった。辛い記憶を思い出させてしまった。
もう、僕の馬鹿バカばか!あの人のあんな顔、僕は初めて見た!彼があんな表情をするだなんて、もう一人の僕は教えてくれなかった!
あの古ぼけた夕焼けの世界で、彼の優しさに甘えて、僕は残酷なお願いをしてしまった。そばにいて欲しいと、僕が眠るまで、離れないでと、我が儘を言った。
 彼はきっとその言葉の意味を分かっていた。それなのに、僕の手を優しく包み込んで、ふっと笑ってくれた。
あの時、微睡む僕の瞳を見てユラユラと揺れていた青い目は、何を思っていたんだろうか。
 僕の想いを受け入れてくれたのか、それとも、去っていった彼を思い出していたのだろうか。
 踊り場に飾られた大きな鏡の前に、泣きそうな顔をした僕が走り去っていった。

ーーーーーーー

最上階に辿り着き、埃をかぶった机をよけながら勢いよく扉を開けば、薄暗かったこの場所にも光が差し込んできた。
ハアハアと上がった息を整えながら、ゆっくりとフェンスに近づいていく。
 一歩、また一歩と足を進めるたびに、アイツの言った言葉を思い出す。
どうしてこんなにも心が掻き乱れてしまったのだろう。俺は、あの言葉に、何を思ったのか。


 『…アテムのこと、なんだけどさ』
 『……』
 『……僕はね、君達が幸せなら、それで構わないと思っていたよ』
 『…いた、か』
 『ああ、ごめんね。でも、これは本音なんだ。デュエルをする時でも、好きあっている時でも、僕は君とアテムが望むのならと見守ってきた』
 『ふん。今は、軽蔑でもするというのか』
 『違うよ。……君と、僕が並べたらと、思ってるんだ』
 『………』
 『……ねえ海馬くん。僕、ちょっと眠いんだ。僕が眠るまで、傍にいて?』
 『遊戯、』
 『お願いだよ、海馬くん。僕、一人じゃ眠れないんだ』
 『……わかった』
 『ありがとう。…ごめんね』


 遊戯が俺の手をぎゅうと握り締めた時、懐かしい気持ちが胸に溢れた。
 幼い頃にモクバと繋いで以来、誰にも触れさせず固く握り締めた左手を、あの男はいとも容易く解いてしまった。
その日から、あの男は何かある度に俺の手に触れてきた。慈しむように、力強く、両の手で握りしめては、綺麗な手だと言って。
あいつが消えてからは、この手に触れるものは誰もいなかった。愛するモクバでも、昔の様に手を繋ごうとはしなかった。
 俺も何故だか、あいつが去って以来誰にもこの手を触れさせはしなかった。それが、あいつへ最後の手向けのように感じたのかもしれない。
それなのに、遊戯には手を差し出した。お願いだと言って微かに笑った遊戯に、俺はいつの間にやら手を握らせていた。
 酸素の足りない脳には二人の顔が浮かんでは消えていく。
 俺は二度と会うことはないと知っている男に、今更何を感じているというのか。

ーーーーーーー

 ぜえぜえと息を乱しながら、最後の一段を駆け上がる。目の前にある、いつもは固く閉じられている扉がほんの少し開いていて、オレンジ色の日差しが小さく覗いているのが見えた。
やっぱり、ここにいる。
ふらつく足を叱咤しながら扉に近づき、ギィと重たい音を立てながら開く。
 途端に差し込んでくる眩しいくらいの光に目を細めれば、狭まった視界には赤い空と白い彼の姿だけが映った。

 「っ…海馬くん!」

 眩んだ目を何度も開閉しながら、太陽の輝く方に立つ彼の名を呼ぶ。
 場違いにも、夕暮れを背にする青い目が、とても綺麗だと僕は思った。

 「遊戯、何故ここに」
 「君こそ、どうして帰らなかったのさ。僕を置いて帰ったらよかったのに」
 「それは…」

そこまで言いかけて、彼は歯切れを悪くして俯いた。
 海馬くんは、彼への想いをまだ忘れてはいないんだろう。僕だって、あの人のことは今だって思い出す度に胸が苦しくなる。
パズルを完成させてからはずっと一緒にいた、強くて頼りになって……海馬くんと、結ばれた彼。
あの日々が、もっと続いていれば、僕は海馬くんにこの気持ちを告白することなんて、無かったんだろうな。
 頭のいい彼のことだから、今は必死に自分の気持ちに対して答えを探しているんだろう。でも、ごめんね。どうやら僕の方が先に分かったみたいだ。
すうっと息を吸って、ただ静かに呟いた。

 「すきです」

ピィーッ

陸上部のホイッスルが校内に響き渡る。
 誰かが走り出したのか、それとも活動が終わったのか。彼の足元しか見ていない僕には、どちらかなんて分からない。

 「海馬くん。僕は、君が好きです」

bottom of page