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はあ、とひとつ息を吐けば、それは目に見えて白く、肌を刺すような寒さとともに、冬が来たのだなと改めて実感する。足元に落ちている茶色の枯葉を踏み、サクサクと音を立てながら道を歩けば、だんだんと目の前のビルが大きく見えてくる。
以前、彼に会ったのはいつごろだっただろう。前回の期末テストで、彼が少し後ろに離れた席でテストを受けていたのを見たきり、面と向かっては会っていないはずだ。

「元気にしてる…だろうなぁ」

一瞬、風邪でも引いてるんじゃないかと不安になったけど、一昨日読んだ雑誌に「カードの貴公子、新たなるステージへ」なんて見出しで、すっかりKCと仲良くなってるI2社の会長さんと一緒に、いつもの仏頂面で写真に写っていたのを思い出して、有り得ないなと考え直す。あの海馬くんが、そう簡単に倒れるはずはないんだろう。
背中に背負ったカバンの中に入っている、まあまあ厚いファイルの重さに苦笑いしながら、チラホラと人の通る並木道を歩けば、大きなビルの立ち並ぶ大通りへと出る。
慣れた足で数回角を曲がれば、この町で一番大きな、そして一番有名なビルの目の前に着く。
いつ見ても、威圧感のあるビルだ。

「海馬くん、今いるかなぁ…?」

スーツを着た色んな年齢の男女とすれ違いながら、ビルの中へと入っていく。
すっかり見慣れたショートヘアーの受付嬢さんに話しかけ、海馬くん、もとい社長さんがいるかと聞いてみれば、今はいつもの社長室にいるらしかった。

「お電話、おかけいたしましょうか?」
「あっ、よろしくおねがいします!」
「はい、かしこまりました。」

ニコリと愛想のいい笑顔を浮かべながら、彼の元に内線を繋いでくれる受付嬢さんの手元をふと見れば、そこにはシルバーのリングがきらりと輝いていた。
もしかして、と思い、彼と少し言葉を交わしたあとに、こちらに顔を向けたお姉さんに「あの、」と声をかける。

「あの、その指輪…」
「えっ…?ああ、ふふ。驚かれましたか?」
「えっ、じゃあ、本当に?」
「…はい。私、婚約したんです。5年付き合ってた方と」

優しい笑みを浮かべながら愛おしそうに指輪を指先で撫でる彼女に、ふわりと心に暖かい気持ちが膨らんだ。

「わあ…!おめでとうございます!」
「うふふ、ありがとうございます。…あ、すいません、引き止めてしまって…。どうぞ、社長室へとお進みください」
「あっ、ありがとうございます!あの、お幸せに!」

はにかみながらエレベーターのある方を示す彼女に、心からの祝福を伝えれば、恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに目を細めて、頭をペコリと下げた。
幸せそうに微笑んだ彼女の左手の薬指で輝くシンプルな指輪が、とても美しかった。



「やっぱり、元気そうだね」

童実野町を一望出来るほど大きな窓の前に、彼はこちらに背を向けて立っていた。
数週間ぶりに見るその後ろ姿は、やはり堂々としててピンと真っ直ぐに伸びていた。
僕の方へと振り向いたその顔は、相変わらずの仏頂面だった。

「ふぅん、貴様も変わらんようだな」
「まあね。僕はもう、普通の学生だから」

肩をすくめながら少し寂しそうにくすりと笑えば、海馬くんはピクリと眉を動かしたけれど、それは一瞬のことだった。

「貴様、もうデュエルはしない気か」
「どうだろうね。お祖父ちゃんになるまでするかもしれないし、大学生になったら辞めるかもしれない」
「………」
「あ…、ごめん。怒った?」
「……いや、そうか。……好きにすればいい」

おや、と心の中で不思議に思う。常ならもっと、ふざけるなとか、馬鹿を言うな、とか言いそうなものなのに。

「珍しいね。君がデュエルのことで熱くならないなんて」
「……貴様は、もうアイツに勝ったのだろう」

アイツ、という言葉に少しドキリとしたけど、僕はただ黙ってこくりと頷く。
僕が頷いたときに、少し海馬くんは眉間にシワを寄せたけれど、すぐにいつもの顔に戻る。

「ならば、貴様が今は全デュエリストの中ではトップだ。その地位を維持するもよし、新たな勢力に託すもよし、全てお前の自由だ」
「あれ、俺とデュエルしろって言わないんだ」
「…ふぅん、名残惜しくはあるさ。だが、俺はもう未来へのロードを見据えている。貴様も、貴様の決めたロードを踏み出せばいい」

いつの間にか、随分と心に余裕が生まれたみたいだ。元から同い年には見えなかったけど、今はさらに彼が大人に見える。
いつでも夢に向かってまっすぐ前を見つめる海馬くんの青い目に、僕は密かにまた思いを募らせる。
ずっとずっと先を見ているその瞳は、僕が大好きな瞳だ。海馬くんらしい、威風堂々とした青い瞳。

「すごく、嬉しいよ。君が前を見ていることが」
「俺は、いつも前しか見ていない」
「ふふ、そうだね。…あ、プリント持ってきたんだった」

綺麗な青色に見惚れていて、つい本来の目的を忘れかけてしまった。
慌ててカバンから分厚くなったファイルを取り出せば、海馬くんが僕の方へと手を伸ばしてくる。
はい、と言いながらファイルを手渡し、彼が差し出してきた手をぼんやりと見つめる。
僕の手よりもひとまわり近く大きい海馬くんの手は、男の人にしては整い過ぎているぐらいに細くて長い、綺麗な指がついている。爪もすごく整ってて、テレビなんかに映る時のためにちゃんと手入れしているんだろうなと、ちょっとドキドキしながら思う。
そんなことを考えながらじっと手を見つめていれば、薬指の付け根がきらりと光ったのが見えて、あれと首を傾げる。

「海馬くん。それ、どうしたの」

何故だか、心臓がバクバクと音を立てている。さっきまで感じていたものとは違う、嫌な感じが胸の中にドロリと広がっていく。

「ぬ…。……これ、は」

急に歯切れが悪くなった目の前の彼に、嫌な汗が出てくるようだった。
ああ、気持ちが悪くなってきた。汚い感情が喉へとせり上がってくる。

「……あいつが、遺したものだ」

嫌な予感が、当たってしまった。ぶわりと体中に鳥肌がたっていく。

「…あいつって、彼のこと、だよね」
「……俺のデスクに、いつの間にか入っていた。先週気付いたのだ」

彼と海馬くんが、俗に言う恋人の関係だったのは、僕が一番分かっている。彼と海馬くんは本当に、お互いのことを心から想っていた。それは確かだし、僕もそんな彼らを快く思っていた。
だから、僕は潔く身を引いたんだ。海馬くんの幸せを、彼らの幸せを祈って。

「……ずっと、これをするべきか悩んでいた。…女々しいと笑っても構わない」

弱々しく言葉を紡ぐ海馬くんに、ズキリと心が痛む。
先までまっすぐ目の前の未来を見ていた彼の青い目が、もうここにはいない彼の姿を想って伏せられていた。

何故、どうして。海馬くんの未来に、彼はいないはずなのに。

「…これは、俺があの遊戯から遺された、最後の想いだと、思ったんだ」

君は、彼からの愛を未来永劫背負っていくのかい。

「……彼は、本当にズルいよね」
「…遊戯…?」

ぐちゃりとした醜い嫉妬と羨望の感情が、じわじわと僕の足元から手を伸ばして、底のない泥の中に僕を引きずり込んでいく。フルフルと震える両手が、今は酷く頼りない。

「……君を、おいていってしまったもの」

彼は、僕の大切な人だった。絶対に、海馬くんと幸せになって欲しかった。それが、僕からの最後の未練だった。
けれど彼は、海馬くんとの未来を歩めなかった。僕は、それがとても悲しくて、悔しくて。

(だからこそ、僕は海馬くんとの未来を望んでしまった)

彼が手に入れられなかった未来。それは不確実で不安定で、僕が心から欲しいと望んだものだ。

「遊、戯…?」

不安そうに僕を見る海馬くんに、またドキリと心臓が跳ねる。
俯いた視線の先に映る銀色の指輪が、僕にとっては海馬くんを縛る呪いに見える。
僕に、彼との未来を歩ませない為の、鎖のついた呪い。

「…幸せに、なって欲しかった」

ついさっき、指輪を見て幸せそうに笑ったお姉さんのことをふと思い出す。あの時にかけた言葉は、全て本心だった。
でも、今は違う。彼との消えない印をつけている海馬くんに、笑いかけることが出来ない。

(いなくなった大切な君を、僕は今から裏切るよ)

今までの暖かい感情が、音を立てて崩れ去る。僕は今から、僕も彼も大好きだった青い瞳に、残酷な告白をするんだ。

「海馬くん、僕はね」

ごめんね、ごめんね。海馬くん、もう一人の僕。

「君のこと、愛していたいんだ」

鈍く輝く銀色の指輪を視界の端に入れながら、僕は震える声で呟いた。

「愛してるよ、海馬くん」

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