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杏子ちゃんは何者なんだ

 

「ねえ遊戯。海馬くんって、恋人いるのかしら」

この年頃の女子なら一度は話すであろう、所謂恋の話を杏子に振られ、俺は首を傾げた。
俺の見立てでは、杏子は相棒に惚れている筈だし、ましてや普段の海馬しか知らないならともかく、「あの」海馬を嫌と言うほど見ている杏子が、海馬に恋愛感情を抱いているとはとても思えなかったのだ。

「いや、いないはずだぜ。…まさか杏子、海馬のこと…」
「やぁーねぇ違うわよ!」

不安そうに尋ねた俺にいつものようにからりと笑いながら否定する杏子に、ほっと安堵する。

「ただちょっと、最近海馬くん綺麗になったなーって思っただけよ!」

その言葉に、思わずえ?と問いかけてしまう。
――綺麗?海馬が?

「遊戯も、ちょっとそう思わない?」

ニコリと笑いかけながら目を覗き込んでくる杏子の言葉に、俺は曖昧に笑い返すことしか出来なかった。

(…海馬が綺麗、か)
5時限目の古文の授業中、相棒が早々に眠気というトラップにかかり眠ってしまい、せめて先生に怒られないようにと意識を交代したとき、ひとつ飛ばした横の席に海馬が座っているのが見えて、珍しく登校していたのに気づいた。
学校での海馬は、言うなれば「優等生」そのものだ。授業態度も真面目だし、何か不良行為を働いているわけでもなく、ただ静かに教科書を開き自らの席に座っているのだ。登校日はまちまちのようだが、あいつのことだからうまくやっているのだろう。
その日は朝から気持ちいいくらいの晴天で、雲ひとつない青空が窓の向こう側に見えた。日差しも暖かく、腹も膨れさらに先生の音読が子守唄となり、何人かの生徒は相棒同様に居眠りしていたようだった。
どことなくゆるりとした教室の中でも、海馬はいつも通りの「優等生」だった。
教科書とノートを開き、いかにも質の良さそうなシャープペンシルで、カリカリと何かに字を書き込んでいる。多分、勉強をしている訳ではなくて、書類か何かを書いているんだろう。
学校に来てまで仕事をしている海馬が座る席はちょうど窓際で、柔らかい日差しがあいつの横顔を照らしていた。
なんとなしにあいつの横顔をちらりと見て、昼休みに杏子が話していた内容を思い出す。

『海馬くん、綺麗になったなーって思っただけよ!』

綺麗、キレイ、きれい。
声には出さず、小さく口内で呟く。綺麗、キレイ、きれい、kirei…。

(…だめだ、全くわからないぜ…)

杏子には悪いが、綺麗という言葉をあの海馬に関連付けることは俺には到底無理だった。

(女にしかわからない感性ってやつなんだろうぜ…)

男の俺には初めから不可能だったのだと、潔く諦めて当の海馬に目を向ける。
海馬はもう書類を片付け終わったのか、文庫本を取り出して完全に授業を無視していた。その横顔は、常と変わらずどことなく陰気臭さを漂わせていた。

(ほら。やはり綺麗なんて言葉、海馬には似合わないぜ)

――海馬はむしろ、清廉された気高い美しさが魅力的で――

(………ん?)

今、俺は何を考えたのだろう。何か、とても大変なことを言いかけたような…。
俺が悶々と悩んでいれば、じっと見つめられているのに気づいたのか、海馬がふと目線を合わせてきた。
いつもならば前髪の影に隠れた眉毛が今は見えていて、何故かそれだけの変化にドキリと肩が跳ね上がる。俺の不審な様子に気づいているのかいないのか、海馬は眉をひそめながら口をパクパクと開閉し始める。
動く唇を見つめれば、何かを伝えようとしているが分かった。

(ま・え・を・み・ろ…?)

"前を見ろ"

その言葉の意味に気づいた瞬間には、周りから痛いほどの視線が集まっていた。

「武藤!何ボーッと海馬を見とるんだ!!早く次のところを読みなさい!!」

先生の怒声にハッとしながら慌てて立ち上がれば、クスクスとした笑い声が四方から湧く。

(すまない相棒…さらに悪化したぜ…)

未だに夢の中にいる相棒に心の中で謝りながら、
教科書を持ち文を目で追う。が、

(どこから読めばいいんだぜ…)

ほとんど話を聞いていなかったために、今までどこからどこまで進んでいるのかがさっぱり分からない。
どうしたものかと頭を悩ませていれば、幸いにも終礼のチャイムが学校中に鳴り響いた。

「むっ、もうこんな時間か…。武藤!お前には来週続きを読んでもらう!」

そう言いながら教室から立ち去った先生に肩をなでおろしながら席に座れば、右隣の席に座った杏子が教科書に次回のところに印を付けてくれた。すまない、と杏子に目配せすれば、気にしないで!と気前よく答え笑顔を返される。

「それに、あたしのせいでもあるみたいだしね〜」

ニコリと笑ったあとに席を立ち、教室から去っていった杏子の後ろ姿を見ながら先程の先生の言葉を思い出し、あっと小さく声が出る。

『何ボーッと海馬を見とるんだ!!』

思い出しながらも、頭に血が上っていくのをハッキリと感じた。

(やってしまった…相棒に顔向けできないぜ…)

相棒が起きたら、まず最初に謝らなければならないな、と考えつつ、チラッと海馬のいる方へと目を向ければ、どうやら向こうもこちらを見ていたようで、目が合い視線がかち合った。
ドキッとして思わず一瞬固まってしまった俺を見ながら、青々とした空を背景にした海馬が、日本人離れした青い目を細め、小さく微笑んだ。

「馬鹿者」

薄く小さな口から凛とした聞こえのいい声でそう言い、またひとつ笑みを浮かべる海馬に、目を奪われた。

(綺麗、だ)

そう瞬間的に思ったときにはもう、俺は海馬に恋をしてしまったと、認めざるを得なかったのだ。

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