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――朧月夜の川の中。人を惑わす物の怪は、白き牝鹿の身を清め、人の心を刻みませ――

ふわりと春百合の華やかな香りが漂う山道を歩けば、どこからかぴちゃりと水の音が聞こえて、俺は耳を澄ました。
――きっと、そこにあいつがいるはずだ。
音の聞こえた方へと早足で進めば、そこには幻想的な光景が広がっていて、思わず感嘆の息を吐くほど美しかった。
すっかり見慣れた景色の中に佇む青と白の男は、緩やかに流れる川の中で、純白の髪を持った白い素肌を晒している、人形のように美しい娘の頭に水を掛けていた。
ぼんやりとした月明かりの下で行われるその行為は、とても神聖なものに見える。
それから二、三度あいつが水を掬い娘の頭に掛ければ、娘にはだんだんと生気が宿っていき、人形から人へと変わっていく。
神に祈るように目を瞑り跪き手を組んでいた娘が、うっすらとその青い瞳を見せた。

「……瀬人、様」

赤く色づいた小さな口が、鈴を転がしたように愛らしく耳鳴りのいい声を発した。
名前を呼ばれた海馬が、こくりと頷き娘のサラサラとした長い髪を撫ぜた。

「よいか、お前は今から花嫁になりに行くのだ。どの者と契を結ぼうが構わん。誰か一人、人間の男と夫婦となれ」

目の前の女にゆっくりと語りかけた海馬は、右手を娘の額に当てて何か二言程呟く、すると突然辺り一面が光に包まれたかと思えば、一瞬の内に美しい娘は消え、ただ白百合の花弁が水面にゆらゆらと浮かぶだけだった。
ひと仕事終わったように、海馬がふぅ、とひとつ息を吐く。二人のやり取りをを遠巻きに眺めていた俺の視線に気づいたらしい海馬が、ふとこちらに顔を向けた。

「ふん…久々に顔を見せたな。遊戯」
「ああ、相棒に会いに行ってたんだ。…今のは、抜け殻に魂を吹き込んでいたのか」

海馬の花から生まれるのは生きものだけで、無機物は生まれない。だが、人間だけは別で、産まれたすぐの者は、色々と手順を踏んでからではないと「生きもの」にはならないのだ。

「珍しく、なかなか美しい白百合が咲いたからな。少しばかり贔屓をした」

肩をすくめながら笑い、ざぶざぶと音を立てながら川を上がる海馬に近づけば、そう言えば、と口を開いた。

「貴様、また野兎数羽で食事を済ませただろう。覇気がまた小さくなっている」

じとりと青い目に睨まれて、またお説教をくらうのが嫌で平気だと告げようとすれば間の悪いことに、腹がクゥ、と泣き声をあげた。

「ぐ……」
「腹の虫は、正直だな」
「先に言っておくが、俺はあの娘は喰わないぜ」
「ふん、強がりを言っている場合か。先の娘はもうやれんが、まだあと一輪白百合がある。それを食えばよかろう」

水の中に入っていたはずの海馬の体は全く濡れておらず、胸の辺りまで持ち上げた腕の袖がふわりと揺れた。
掌を開き海馬が小さくそこに息を吹き掛ければ、何もなかった掌から球根が現れ、そこからだんだんと茎が伸び、先端についた蕾が花開き、一輪の美しい白百合へと変化した。

「綺麗、だな」
「これからは、きっと特別華やかで清らかな女が生まれるぞ。その器に入る魂もまた、特別美味いだろうな」

にやりと笑いながら満開の白百合を俺の顔の前に突き出す海馬に、多少心が揺れつつもそれを押し返す。その行動にたじろいでいる白百合を握る海馬の手首を掴みながら、俺は白い花弁の向こうに見える青い目をじっと見つめた。

「俺には、必要ないぜ」

水面を映したような美しい青目を逸らさずに、小さな薄い唇に口付ける。

「お前がいるからな」

にこりと笑ってそう言えば、海馬はその青目を見開いた。

「…遊戯、それはどちらの意味だ」

怪訝な顔をして聞いてくる海馬に、また小さく笑いながら頬に唇を当ててやる。

「強いて言うなら、俺は今、お前をたらふく喰たいと思ってるぜ」

そう言いながら目の前の小振りな唇をベロリと舐めあげれば、海馬が身じろぎながら観念したように溜息をつき、瞼を閉じながら自分の唇を俺のに重ねてきた。
繋がったお互いの唇の暖かさにゾクリと背筋を震わせながら、俺は夢中でこの美しい花咲かせの唾液を啜った。

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