top of page

ぬるい切断表現あります

 

彼は今、平々凡々な人生の中で、一番の窮地に立たされていた。
手足が震える彼の目の前で、にこりと艶やかに笑う美青年は、甘い言葉を囁く。

「俺をお前のモノにして欲しい」

彼はたいそう驚いた。なんせこの美青年は、誰しもが憧れ手を伸ばす、皆が心を奪われる人間だったからだ。
自分は今、都合のいい夢を見ているのか。驚く青年は自分の太ももの肉をつまんだが、それはただヒリヒリと痛みを与えるだけだった。

「嘘ではないぞ。俺はお前に恋をしたんだ」

嗚呼、なんて素敵なテノールの響きなんだろう。この美しい声を、自分は手に入れようとしているのか。

「俺の全てを、お前に捧げる。悪い話ではないだろう?」

口の端を吊り上げながら、深海のように青々とした瞳を煌めかせる彼に、男は至って普通の黒色の目をしばしばと開閉する。

「本当に、貴方が僕を」
「そうだ。俺が、お前を」
「いや、いや、有り得ない。だって貴方には、僕なんか、到底釣り合わない」
「おや、そんなことはないさ。…俺の愛は、そんなにも信じられないか?」

悲しそうに目を伏せる彼に、男は動揺した。
彼を、悲しませるだなんて!僕はなんて罪を犯してしまったのか!
すっかり罪人の気分に陥った彼は、慌てて憂いの表情を見せる想い人の手を取って膝をつき、すべらかな甲に口づけた。

「いえ、いえ!僕は貴方の愛を、しかと分かっています。貴方に愛されることが、幸せ過ぎて、少し臆病になってしまった。どうか、許して欲しい」

彼のする御伽話の真似事は、傍からみたらあまりにも滑稽だったが、それを受け取る青年の美貌と怜悧な視線が、真剣味を一気に増していた。

「顔を上げろ、俺はお前に謝られたいのではない。愛を囁いてもらいたいのだ」
「でも、僕は…、貴方の美しい瑠璃色の瞳を、悲しみに染めてしまった。それだけで、なんと、なんと罪深いことか…」
「美しい、瞳?」
「そう、そうです。貴方の瞳は、他の何よりも、美しく気品がある。いや、いや、瞳だけではありません…。貴方は、爪だって髪だって、はたまた骨だって、きっと美しい」

彼の口からは、嘘くさいまでの賛辞がスラスラと溢れてくる。まるで、詐欺師のような口説き文句ばかりだ。
しかし、そんな言葉でも、この白晢の青年は喜んだ。
やはり、自分を愛せるのは、この男に他あるまいと。

「その言葉に、嘘はないな?」
「ええ、ええ。もちろんです」
「…ふふ、そうか。ふふふ……」

喉を震わせて笑う青年は、己の手を取る彼へその人形のように整った顔をぐいと近づけた。
鼻がつきそうな程間近に来た顔に、彼の心臓は早鐘を打った。
なんて、綺麗な肌だろう。白の中にある赤い唇の、なんと色鮮やかなことか。

「なら、俺の愛の証を、受け取るな?」
「ええ、ええ!もちろん」

彼の返事に気を良くした青年は、恐ろしいまでに美しい顔を笑みで歪めた。

「もう、お前の手の中に、それはある」

え、と彼が呆然と呟いた瞬間、ぬるりとした液体が、彼の手を汚した。
べチャリとして生暖かいそれは、赤く濁っていた。

「あ、の」
「お前が、綺麗と言ってくれたから」

にこりと慈愛的に笑う彼の左手を見れば、先まではあったものがなく、自分の掌の上には、あるはずないものが、ちょこんと乗せられていた。

「どうだ、嬉しいだろう?」

これが、愛の証だ。
そう言って、彼は怯える男に口づけた。

bottom of page